1996年アトランタ大会
有森裕子、銅 2大会連続のメダル獲得

- アトランタ五輪・女子マラソン ゴールする有森裕子=1996年7月28日
【アトランタ支局28日】「女子マラソン最強トリオ」の有森裕子(29=リクルート)が、執念の銅メダルを獲得した。33キロすぎから3番目を独走。2時間28分39秒の自己2番目の好タイムで、バルセロナ五輪銀メダルに続く日本女子陸上界初の連続メダル獲得を果たした。真木和(27=ワコール)は中盤から右足付け根の痛みに悩まされ12位。浅利純子(26=ダイハツ)は、左足の裏のマメがつぶれ17位に終わった。ファツマ・ロバ(25=エチオピア)が2時間26分5秒で優勝した。
白いゴールラインを越えるとすぐ、有森は立ち止まった。歓声に手を上げる力も残っていなかった。42・195キロ。持てる力はすべて出し尽くした。だらりと下げた両こぶしを小さく握った。精いっぱいのガッツポーズだった。
バルセロナの銀メダルより、順位はひとつ下がった。でも、感慨はずっと深かった。「バルセロナの時は走り回って、喜びを味わう余裕もなかった。今度は、ゆっくりと感激をかみ締めたかった」。日本人応援団が陣取ったスタンドに向かって、ゆっくりと歩き始めた。「自分が、これまでで一番輝いていたと思いますから」。有森は、泣きながら笑っていた。
30キロすぎの下りでスパートした。単独2位に上がった。金メダルを頭によぎらせながら、第2集団から飛び出した。だが33キロすぎ、後方からエゴロワが並びかけてきた。バルセロナ五輪の終盤、モンジュイックの丘で、すさまじいデッドヒートを演じたライバルだ。
「4年前と同じだ」と思った。うれしかった。五輪を実感できた。しかし、体はもう限界だった。再びエゴロワと競り合う力は、残っていなかった。アップダウンの連続に足がしびれた。簡単に抜かれた。順位のことは考えなかった。ゴールだけを頭に描いて走った。何度も「もうつぶれる」と思いながら、必死に耐えて銅メダルをつかみ取った。
レース前、父茂夫さんに言い残した。「ゴールする時の私の顔を見てほしい。今まで努力してきたすべての結果だから」と。その通りに、輝きまくってゴールに戻ってきた。娘のマラソン人生の集大成を、しっかりと脳裏に焼き付けた父は言った。「本当にありがとう、と言いたい。最後ですからね」。
有森が「初めて自分で自分を褒めたいんです」と、心の底から感激に浸っている時、後輩二人は、まだ苦闘を続けていた。真木は、38キロ付近で「やめようか」と思いながら走っていた。中盤から右足の付け根が痛み始めた。30キロを過ぎて痛みは増した。しかし、沿道に日の丸を発見した。「頑張れ」という父の声が聞こえた。「とにかく一つ一つ前にいこう」と心に決めてゴールを目指した。
マラソンの厳しさを、初めて知った。右足付け根の痛みは、春先から抱えていた。練習では、何とかごまかせた。今度も「何とかなる」つもりだったが、五輪の大舞台で、そんな甘い考えは通用しなかった。ゴール直後、藤田信之監督に「もう少しついていかんと、勝負できへん」と一喝された。涙があふれたその時「もう1回、マラソンを走りたい」と心底思った。
真木から2分遅れでゴールに入ってきたのは浅利だった。歩くことも、話すこともできなかった。鈴木従道監督の体にグッタリともたれかかった。そのまま、医務室へ担ぎ込まれた。左足のシューズの下が真っ赤に染まっていた。5キロ地点でマメがつぶれ、残り37キロは痛みとの闘いだった。
最も金メダルに近いといわれながら、一番最初に集団から脱落した。「いつもソックスをはくのに、今回は素足のままで走った」と、鈴木監督が言った。意識を回復した浅利は、悔し涙を流した。「体調も天候も最高だった。なんでこの日にこんなことが……。でも、4年間、この日のために練習してきたんです。やめる(途中棄権)わけにはいきませんでした」。
明暗は、くっきりと分かれた。だが「最強のメダルトリオ」として日本の期待を集めた3人が、それぞれに力の限りを尽くしたアトランタの42・195キロだった。
3人のドラマは、誤算だらけの中で幕を開けた。スタート1時間前(午前6時)から、強い雨に見舞われた。レース直前の気温は21度。「30度を超す酷暑」の予想は大きく外れた。レース展開も意外だった。五輪スタジアムを出るとすぐ、ピピヒ(ドイツ)が飛び出した。ボストンマラソン3連覇のV候補が独走し、5キロ地点では100メートルの大差をつけられた。
それでも有森は、笑いながら走った。バルセロナ五輪でも、一度は先頭集団から遅れながら追いついた。だから、前回優勝のエゴロワ、昨年の世界王者マシャドと並走して様子をうかがった。出る気配はなかった。思ったより冷静な自分に気付いていた。
「ゴールの向こうの輝ける何かを見つけたい」。そう思ってアトランタに来た。バルセロナ五輪で銀メダルを獲得した。しかし、歓迎と祝福が一段落した時に、待っていたのは、以前と同じ生活だった。会社からは、再び駅伝への出場を要請された。「銀メダルの向こうに輝ける何かがあって、自分も輝けると思ってました。それが何も変わらなかった。でも、今度こそ何かがあると思うんです」。最後のレースは「絶対に楽しむ」と心に決めていた。
楽しむ有森から浅利が離れていったのは11キロすぎだった。日本勢の中で、最も調子が良いはずだった期待の星が、集団からジリジリと後退する。沿道の120人を超える大応援団の声援にこたえられない。体が重く、足が動かない。
それでも「あきらめるわけにはいかない」と思った。前回のバルセロナ五輪は、有力候補に挙げられながら、選考レースの大阪国際で6位と敗れた。後輩の小鴨由水の付け人としてバルセロナに同行した。つらかった。みじめだった。その時、心に決めた。「アトランタに行く。そして、金メダルをとってやる」。その思いを4年間、持ち続けてきた。
世界選手権で金メダルを獲得した後、不振が続いた。昨年5月、関西選手権一万メートルで途中棄権した。「おまえなんか指導できるか」。鈴木監督に怒鳴られた。「もう辞めよう」。秋田の実家に帰省した。しかし、5日後、迎えに来た監督の言葉を聞いて目が覚めた。「バルセロナの悔しさを思い出せ」。
雪辱への思いだけで、集団に追いすがろうとする浅利の前を走る真木も、もがいていた。15キロすぎには、先頭集団から1分以上の大差をつけられた。「日本人の最後になるのだけはいやだ」と、必死に追った。
無欲でアトランタに来た。ただ「日本の二人にだけは負けない」とだけ決めていた。ワコール入社以来、毎日欠かさず日誌をつけている。その日誌をレース前に読み返した。そこには繰り返し書いてあった。「3番目になりたくない」「日本人には負けたくない」。
最終代表選考レースの3月の名古屋国際で初マラソン初優勝を飾ったが、正式に代表となった時、五輪本番までの期間は4カ月しか残っていなかった。肉体的、精神的な疲労は想像以上にひどかった。「一度は代表を辞退することも考えた」(藤田信之監督)。
ようやく走れるようになったのは5月中旬だった。有森や浅利のように、高地合宿や暑さ対策、本番コースを試走をする時間はもうなかった。悩んだ末、調整の目的をたったひとつに絞った。「アップダウンを走り切れる足の筋肉をつくる」ために7月、カナダのバンクーバーに飛んで、涼しい森の中をひたすら走って迎えたアトランタだった。 前半で真木と浅利が脱落した。一人で海外の強豪を相手にすることとなった有森の視界に、ピピヒの姿がぐんぐん大きく見えてきた。17キロすぎ、ついにピピヒを集団に引き込んだ。体は動く。足も軽い。沿道の声援もはっきり聞こえた。3月の代表決定以来、コロラド州ボルダーの約2700メートルの高地で合宿を続けてきた。スタミナには自信があった。
楽しい走りに、変化が起きたのは19キロ付近だった。5人の先頭集団から、無名のランナー、ロバ(エチオピア)が抜け出したのだ。一気にスピードを上げ、見えなくなった。それでも有森は、はやる心を抑えた。「まだ早い。もう少し」。それから約10キロ、集団の中で並走した。そして30キロすぎの下り坂に差しかかった。満を持して4人の集団から飛び出した。苦闘の3年間を胸に、「輝ける何か」を求めてのスパートだった。バルセロナ大会から1年後、練習を再開した。しかし、20分で息が上がった。体重もベストの48キロを5キロもオーバーした。気持ちが乗らなかった。精神面でのかっとうに加え、足も痛むようになった。「何のために走るんだろう」。笑顔が消えた有森に、次の目標がはっきりと決まったのは94年11月だった。
思い切って両かかと(足底けん膜炎)の手術をした。偶然、バルセロナ大会男子マラソン金メダリストの黄永祚(韓国)も同じ手術で入院中だった。彼がこう言った。「僕は金メダルをもう一度とるために頑張っている。君は銀だったのだから、僕以上に大きな目標に挑戦すべきだ」。この時、アトランタを初めて意識した。
メダルに向かって走る有森。その2キロ以上も後方に真木と浅利はいた。先頭集団はもう見えない。何度も夢に見た金メダルも、もう無理だった。2週間前に試走をした時、浅利は「アップダウンも影響ないし、距離も短い」と感じた。同じ道なのに、今は違う。坂は想像以上に急で、長かった。つらく苦しかった。
子供のころと同じ思いだった。小1から中2までマラソン大会はいつも2位だった。走ることが好きじゃなかった。陸上部へは誘いを断り切れずに渋々と入部した。花輪高時代は何度も「やめたい」と漏らした。泣きながらスタートラインに立ったこともあった。あのころと同じように走ることがつらかった。
真木からも「日本人に負けたくない」という闘争心は消えていた。ただ、「ゴールしたい」とだけ思っていた。最後に代表決定してから、でき得る限りの練習はしてきた。それだけで満足だ。この日のためにやってきたことを出し尽くそう。それだけを考えて走り、浅利より、ちょっとだけ先にゴールへたどりついた。
「メダル独占」の期待を背負った3人は、全く違うシナリオの中でアトランタに挑み、全く違うドラマをオリンピックに描いた。有森は、このレースを最後に第一線から退く可能性が強い。「結果はどうあれ、アトランタは区切りの場所。メダルをとろうと、最下位になろうと変わりません」と宣言して、臨んだレースで「輝ける何か」を見つけた。
ゴールとともに意識を失った浅利は、今回の結果にかかわらず「あと2レースを走る」と決めている。来年の世界選手権と、ボストンマラソンだ。「伝統のある大会を一度は走ってみたいと思っていましたから」と、今回の雪辱を二つの国際大会で晴らすつもりだ。真木は、五輪をマラソン人生のスタートだと考えている。「いつかはトラックでの走法で最後まで走り切るレースがしたいんです」という夢が残っている。
3人のアトランタは終わった。そして今、夢舞台へ向けて競い合ってきた3人が、それぞれの道に向かって歩みだす。
(年齢、所属は当時)



