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コラム


肝移植した母のため「北京は通過点」

2008年8月10日

自転車 宮沢崇史(30)

 五輪には、勝者以上の敗者がいる。選手の数だけドラマがある。力及ばず敗れ去った選手たちの生き方、考えを「敗者の美学」として紹介する。第1回は自転車男子ロードレースで86位に終わった宮沢崇史(30=梅丹本舗GDR)。生体肝移植のドナーとなった経験を励みに、北京の街を走り抜けた。

 宮沢の表情は晴れやかだった。完走90人中86位。6時間55分24秒は、優勝したサンチェスから30分以上も遅れた。完敗。それでも、53人が棄権する厳しいコースを走りきった。「10キロ以上の上り坂が7回もあるコースなんてめったにないから、きつかった。ただ、力は出し切ったので悔いはありません」。初挑戦の五輪で走れたことを喜んだ。

 沿道に母純子さん(59)の姿があった。7年前、純子さんが肝臓を患い、肝移植が必要になった。幼いころに父を亡くした宮沢にとって、かけがえのない存在。自ら移植を申し出た。迷いはなかった。01年9月に肝臓の半分を提供した。

 実業団チームに入ったばかりだった。ただでさえスタミナが必要とされるロードレース。健康な体にメスを入れる不安があっても不思議ではない。それでも宮沢は「誰でも自分の母親がそうなったら、競技のことなんか考えないでしょ」と言う。肝機能は戻ったが、半年間は競技に戻れなかった。復帰後も結果が出ず、所属チームも解雇された。

 02年、単身で欧州に渡った。背中を押してくれたのは、元気を取り戻した母だった。「頑張らないと、と思いました。それまでの3倍は練習した」。成績が落ちたら、母を悲しませる。だからこそ努力した。母の存在が支えになった。ツール・ド・フランスを走る夢に向けて、力になった。

 「ハンデと思ったことはない」と宮沢は言う。肝移植ドナーの五輪代表は極めて珍しいが「ドナーでも、トップレベルで競技はできる。同じ立場の人を勇気づけられれば」。がんを克服してツール・ド・フランスを7連覇し、同じ病気で苦しむ人を勇気づけたアームストロングが理想だ。「北京は通過点、まだまだ強くなって勝負したい」。宮沢は堂々と胸を張った。

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力走する宮沢崇史(共同)

宮沢崇史(みやざわ・たかし)

 1978年(昭和53)2月27日、長野市生まれ。ツール・ド・フランスにあこがれて長野工で自転車競技を始め、国内外のレースで活躍。2002年からは拠点を欧州に移して、フランスなどで経験を積んだ。07年アジア選手権ロードレース優勝。165センチ、60キロ。




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