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コラム


日本柔道にJUDO訴え続けた

2008年8月10日

 立派な銅メダルだった。笑顔はなかったが、胸を張っていい。3位決定戦は素晴らしかった。積極的に攻め続け、完ぺきな払い腰で1本勝ち。「ママでも金」はならなかったが、胸の銅メダルは金メダルに負けないほど輝いていた。

 準決勝で敗れた。終盤に指導を奪われるまでは、必勝パターン。少なくとも、あのまま延長に入ればスタミナに勝る谷に分があったはずだ。返し技を食う恐れのある相手に無理に技を仕掛けず、体力の消耗を狙ってポイントで勝つ。それが谷の柔道。勝負に徹したスタイルだからこそ、ここまで活躍してこれたのだ。

 「しっかり組み合い、1本を奪う」のが、日本柔道の「正しい姿」。谷自身も「常に1本を狙う」とポイント柔道を否定する。しかし、実際は日本柔道の理想とはかけ離れた現実的な柔道。準決勝の敗戦で「もっとしっかり組めば」「積極的に1本を狙えば」という声も聞こえるが、このスタイルで結果を残してきたことも間違いない事実だ。

 負けが許されるなら、リスク覚悟の試合もできただろう。しかし、初出場した92年大会から、常に金メダルを期待され続けてきた。女子が正式種目となった同大会から柔道は大会前半に行われるようになった。00年大会からは、競技順が軽量級からに変わった。自身の成績が柔道陣と日本選手団全体の勢いにも影響する。絶対に負けられない重圧の中、より確率の高い戦法をとるのは、当然のことだった。

 谷は、好んで「けいこ」ではなく「トレーニング」と言う。「柔道家」ではなく「アスリート」という言葉も好きだ。これまでの柔道界の常識とは違った発言で、理想の「柔道」に固執する日本柔道界に「JUDO」の重要性を訴え続けてきたようにも思える。

 日本柔道では金メダル以外は評価されないといわれてきた。過去31個の金に対し、銅は13個。銅が2人いることを考えれば、極端に少ない。過去の3位決定戦でも、明らかに覇気のない選手がいた。しかし、谷は違った。最後までメダルを目指して戦った。悔しい思いを隠して、精いっぱい戦った。そういう姿勢を貫いたことこそが、谷の素晴らしさだと思う。

荻島弘一(おぎしま・ひろかず)

 1960年(昭和35年)東京都生まれ。84年に入社、スポーツ部勤務。五輪、サッカーなどを担当し、96年からデスク。出版社を経て05年から編集委員として現場取材に戻る。




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