誰にでも、忘れられない五輪の記憶がある
2008年8月05日
いよいよ北京五輪の開幕が近づいてきた。内政面でも外交面でも多くの問題を抱えた中国に五輪開催の資格があるのかという議論をひとまず置いて、せっかくなので、スポーツの話で五輪を考えてみたい。
世代によって五輪の記憶が異なるのは当然だが、やはり青春時代の記憶とオーバーラップしたものが一番鮮やかなのではないだろうか。思春期の一コマとして感動したスポーツのシーンが眼に焼きついている人も多いはずだ。
また、物心ついた頃の幼い自分が新しい世界を発見したように、選手のプレーが驚きとして記憶に刻まれていることもあるだろう。

記憶に残るそんなシーンこそ、スポーツがスポーツであることによって、人々を興奮させ、感動させる原点である。一つのプレーに感動し、憧れを抱いてその競技を始めた人もいる。あるいは、競技をやめようと思っていた人が、あるシーンを見て競技を続けようと勇気を与えられることもある。
そういう意味でも、スポーツは見るだけの人より実際にスポーツをする人にとって、より切実で、魅力的なものになる。
私にとって五輪の強烈な思いでは、やはり、中学1年のとき、1964年(昭和39年)に開催された東京五輪である。東京五輪を知っているだけで、歴史の証言者のようにされてしまうのが不満だが、もうすでに44年前の出来事になったので致し方ない。その44年という歳月にあらためて驚くのは、東京五輪は敗戦後わずか19年後に行われたという歴史事実だ。
国土が焦土と化し、250万人が命を失った総力戦に敗れた後、19年で私たちの父祖は東京五輪開催を成功させたのだ。当時の日本人、つまり私の世代の親の代以上の、戦中派と戦前生まれの日本人で、戦争で生き残った人々が東京五輪を成功させたということなのである。今から19年前、1989年が平成元年であり、ベルリンの壁が崩壊した年であることを思うと、この19年間で現在の日本人は何ができたのかと自省し、私たちの非力さを痛感してしまう。
マラソンが行われたとき、アベベのまるで哲学者を思わせる風貌に魅かれ、他を寄せ付けない強さに感嘆した。2位を必死に死守していた円谷幸吉がイギリス人ヒートリーに国立競技場のトラックで抜かれる瞬間は、中学の職員室にあったテレビを大勢の教師や生徒たちと大声をあげながら一緒に見ていた。
それでも円谷は3位でゴールインしたが、苦しそうな顔をして毛布にくるまれた。そのとき、円谷幸吉は武士のような顔をしていると思った。私は中学時代はバスケットボール部に所属していて3年生になって弱いチームのキャプテンを務めたが、体育の時間の1500メール走ではいつも5分そこそこのタイムを出していたので、高校では陸上部に入ることになる。円谷や東京五輪では失敗した君原健二に憧れていたからだ。
4年後の1968年はメキシコ五輪が行われる年だった。高校2年に進級する前の1968年1月9日、東京五輪で武士のような顔だと思った円谷幸吉がカミソリで左頚動脈を切って自殺した。「もう走れない」という遺書を遺していた。
この年ノーベル文学賞を受賞する川端康成は、円谷が遺書の中で何回も母へ「(食事が)おいしゅうございました」という感謝の言葉を繰り返していることに触れ、「美しくて、まことで、かなしいひびき」で「千万言も尽くせぬ哀切」と評した。
三島由紀夫も、円谷の自殺へのジャーナリズムの下賎な詮索に対して、「円谷二尉の自刃」というエッセイを発表した。
三島は円谷の死を「傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺」で「この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と批判した。
沢木耕太郎が「調査情報」というPR誌に書いた「長距離走者の遺書」が収録された『敗れざる者たち』が出版されたのは、その8年後、1976年のことだった。大学を中退した私が出版社の中途採用の試験を受けたとき、沢木の「長距離走者の遺書」が入試問題になっていった。
問題は、全文を読んでこの執筆者に原稿依頼の手紙を書け、というものだった。
円谷選手の遺書を、今度は入社試験で熟読することになったのだ。
さて、北京五輪にも誰かの記憶に残る大会になってもらいたい。それにはスポーツの価値をスポーツの価値として認められる中国社会が前提となるが…。
※写真は東京五輪マラソンで競技場に戻る円谷と、追走するヒートリー



