反町ジャパン北京五輪出場/五輪予選

- 北京五輪出場を決めた反町監督(中央)は選手から祝福の水をかけられる
<北京五輪最終予選:日本0-0サウジアラビア>◇C組◇21日◇国立
無名の男たちが、試練を乗り越え、北京への扉を押し開けた。サッカーU-22(22歳以下)日本代表が、強豪サウジアラビアとの最終戦を0-0で引き分け、4大会連続8度目の五輪出場を決めた。勝つか引き分けで予選突破が決まる日本は、序盤から相手の猛攻にさらされながら、守備陣が体をなげうって完封。反町康治監督(43)のもと、スター不在のチームらしく最後まで泥臭い戦いを貫いて、夢を実現させた。08年8月の本大会までにさらに力を付け、68年メキシコ大会以来、40年ぶりのメダルを狙う。
何度も思い描いていたフィナーレだった。笑顔で駆け寄る選手たちに反町監督は体を預けた。2度、そして3度。宙に舞う間、あふれる涙で国立の夜空がにじんだ。「苦しい予選でした。でも北京に行けます」。4万人を超える観衆で青く染まった会場に響いた声は、震えていた。監督就任から489日目。ついに辛く厳しい戦いを乗り越えた。
試合前の控室。ホワイトボードに張り出された日程表が、選手たちのメッセージで埋められていった。「絶対に勝つ」「勝って北京へ行く」。強い決意が集中力を極限まで高めた。前半9分、GK西川が飛び出した無人のゴールに青山敏が駆け戻り、決定的シュートをクリア。同13分の至近距離からの一撃にはMF細貝が体を投げ出した。「気持ちで守りに入りたくなかった」。後半はリスクを冒して反撃に出た。同3分に右足首を削られたFW李は「点を取って勝つ」と即座に起き上がり、GK正面へ強烈なシュートを浴びせた。
チーム発足当初、Jリーグでベンチ入りできた選手はわずか7%。過去の五輪代表に比べて、無名の集団だった。新潟監督時代の実績を評価されて就任した監督も「オレだって国際舞台での経験が豊富なわけではない」。1年4カ月間で招集した選手は実に計72人。「日本サッカー界の最終目標は4年後のW杯。そこで戦力にならない選手は呼ばないようにしよう」。日本代表のオシム監督と交わした約束を胸に、人もボールも動くサッカーを若い世代に浸透させてきた。
「少しでも国際舞台を意識させたい」とボードに必ず英語で練習メニューを書き込んだ。おとなしい選手を発奮させるため、「日替わり主将」制で全員に責任を持たせてきた。「あのころは、みんなおとなしかった。でも今は競争意識を持ちながら、1つのチームとして何でも意見を言い合える」と主力を担ってきた伊野波は振り返った。
無名集団は熟成まで時間を要した。最終予選の前半戦3試合でわずか2得点。2勝1分けの首位で折り返しながら、五輪出場を危ぶむ声が高まり、反町監督の解任騒動に揺れた。その窮地が選手たちを動かした。「悪いのは監督ではない。自分たちに責任がある」。選手たちは宿舎で食事や自由時間をミーティングに費やし、スタッフが用意した対戦相手のVTRを奪い合うように見た。
運命の最終戦は、最後まで選手を信頼した。ハーフタイムの指示は、引き分け狙いを捨てたサイド攻撃の徹底。「ハイテンションな試合で途中で選手を入れてもついていけない。その状況を想定して先発を選んだ」と交代枠を一切使わなかった。終盤、相手が3トップに布陣を変えると、ベンチの指示を待たずに左MF本田圭がサイドバックへ移動。冷静な戦いぶりに「たくましくなった」と指揮官も目を細めた。
東西アジアの実力差がなくなった時代に、完全ホームアンドアウエー方式で2次予選から計12試合を戦う史上最も困難な予選を勝ち抜いた。「五輪には参加することに意義がある、という言葉は気に入らない。メダルを狙う」と指揮官は胸を張った。無名だった男たちが、スポットライトを浴びる世界舞台へ旅立つ。【山下健二郎】
[2007年11月22日9時42分 紙面から]
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